2022/09/02 20:00

Bird's eye Otaru - 小樽の海岸線を見ると -
 地図で見る小樽は、山と海に挟まれた自然豊かな街であり、その小樽と海の間をかたどる境界線は、港町独特の凹凸を持った線になっています。この海との境界線を見ていくことで、現在に至るまでの小樽という街の変遷が見えてくるのではないかと思い、-Bird's eye Otaru-シリーズの製作を始めました。




図1:2021年撮影の航空写真  図2:明治期の小樽鳥瞰図


- 明治期の小樽 -
元々の小樽の海岸線は、とてもシンプルで、海に面して大きな浜と一部の船着場が作る海岸線となっており、現在の港の風景とは全く違った景色だったことが想像できます。
時代が進み、漁業や海運が発展し始める大正期になると、港としての範囲が徐々に大きくなり、この海岸線に少しずつ変化が現れ始めます。




図3:大正期の小樽鳥瞰図


- 大正期の小樽 -
大正期の小樽は、漁業や海運としての港利用の需要が増え始め、来泊する船の船着場を確保するために運河を作ります。元々あった海岸線と海の間に、船着場となる島を形成することで、その島と海岸線との間を運河とし、沖に停めた中型船から艀(はしけ)を使って運河の中へ荷物を運ぶ、より効率的な港へと形を変えて行きました。
こうして徐々に、小樽の陸地が海に向かって少しずつ広がって行きます。




図4:1948年(昭和23年)撮影の航空写真


- 昭和初期の小樽 -
昭和に入ると港は、大型船を迎え入れるためにさらに海へと陸地を広げて行きます。
1948年(昭和23年)撮影の航空写真を見ると、先ほどの大正期の鳥瞰図からさらに海側に埠頭が形成され始めています。
運河を構成していた島々に埠頭を増築する形で、埋立区域を拡大し、図4の画像の時点では、第1・第2埠頭まで完成しており、第3埠頭が形成途中となっています。
この時点では、まだ運河の半分が海に直接面しており、北側半分に小型船・中型船、南側の埠頭群に大型船を停泊させるハイブリットな港の形となっていました。
しかし、それも昭和の後期に差し掛かると大型船の割合が高くなっていきます。




図5:1983年(昭和58年)撮影の航空写真


- 昭和後期の小樽 -
埠頭が次々に完成していくと共に、運河の利用は減っていきます。
利用されなくなった運河をどうしていくのか。この問いに対して、小樽は、運河を完全に埋め立てることをせず、残して利用していくことを選択します。今、小樽が小樽運河を中心とする観光都市となっていること、そして、これからの小樽を考えていく上でも、この決断は、小樽の大きな分岐点となっていると私は思います。




図6:2021年撮影の航空写真


- 小樽という街を楽しむために地図を使う -
明治から現在に至るまで、海岸線が徐々に海に向けて広がっていったことを踏まえると、その時々の海岸線は、歴史の境目であるという見方もできるのではないでしょうか。小樽の街を歩くときに、その境目を少し意識してみると、街の見え方も違ってくるのではないか。そんな思いで、今回のblogを書かせていただきました。

-Bird's eye Otaru-シリーズで製作している作品は、今回主に取り上げた、小樽の海岸線をより強調した作品「Bird's eye Otaru」、そして、変遷してきた海岸線をより感じれるように少し街を詳細に描いた「Bird's eye Otaru. Close 1.」と今回のblogで書いたことをコンセプトに製作してきた作品です。


- Bird's eye Otaru -

- Bird's eye Otaru. Close 1. -



この作品たちに、ぜひ、興味を持っていただけるようにと、今回のblogを書かせていただきました。

ご清覧ありがとうございました。

今回は、小樽の海岸線について書きましたが、次回は、小樽の特異な街の構造について書いてみたいと思います。

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- 参考文献 -
・国土地理院 航空写真各種
・市立小樽図書館デジタルライブラリー